土光さんの思い出                     (電気新聞   2005/1/19)

                 金子熊夫

「財界の荒法師」の異名で親しまれた土光敏夫氏が他界されて早くも一六年になるが、今でも折に触れてしばしば思い出される。

 私が土光さんの謦咳に接する機会を得たのは一九七〇年代後半から八〇年代にかけての数年間だけである。当時土光さんは経団連会長で、私は一介の役人―外務省の初代原子力課長―という立場であったから、普通ならとても気軽に交際できる人ではないが、偶々仕事の関係で前後二度にわたって、非常に親しくさせていただいた。

 最初は、七七年の秋、動燃(現サイクル機構)の東海再処理工場の運転問題を巡る日米交渉が妥結した直後に開始した「国際核燃料サイクル評価」(INFCE)会議のときであった。

この会議は米国のカーター大統領の個人的なイニシャティヴで開催されたもので、原子力発電の推進と核拡散の防止をいかに両立させるかについて、二年半にわたり約四〇カ国が参加して徹底的な見直し作業を行った。

とくに日本の場合、東海工場運転許可の条件の一つとしてINFCEへの積極的参加を義務付けられていたこともあり、またこの会議の結果が日本の核燃料サイクル政策(英仏再処理委託や六ヶ所工場の立ち上げなど)に直接響くという危機感があり、背水の陣で対応する必要があった。

高度の外交的判断を要するINFCE対策は当然外務省の主管事項であったが、昔から「色男、金も力もなかりけり」の役所のこととて、霞ヶ関のライバル官庁や電力業界などの意見の調整は容易ではなく、国内の足並みも初めは乱れがちであった。

その状況を見て、「国内官庁や業界は私が責任を持って押さえるから、外務省は外交交渉に全力を投入してくれ」と言って全面的にバックアップしてくれたのは土光さんで、自ら陣頭指揮でオールジャパン体制を支えてくれた。私の面前で土光さんに怒鳴られた大企業の社長もいた。お蔭で、INFCE外交は日本にとって大成功(但し米国にとっては裏目?)で、日本の原子力の危機はなんとか回避された。

もう一度は、これも一九八〇年前後のことだが、例の「カンドゥ炉導入問題」が紛糾したときだ。通産省は一貫して導入に積極的で、同省の大物OBのM氏(当時電源開発総裁)や国会議員のT氏(故人)などを動員して強力な導入工作を展開していた。これに対し、科学技術庁は動燃が開発していた新型転換炉「ふげん」推進一点張りで、当然「カ炉」導入に猛反対。原子力委員会は、真っ向から対立する両省庁の間で調整に梃子摺っていた。

そこで、俄かにキャスティング・ヴォートを握った外務省の判断が重要になった。それまで表向き中立を保っていたものの、省内にはカナダ政府の働きかけで「カ炉」導入論も少なくなく、色々な思惑が入り乱れていた。  

そのとき、誰よりも大声で「カ炉」導入反対、「ふげん」推進を唱えたのは土光さんで、「安易に外国技術に頼ると必ず後で苦労する。原子力技術は是非とも国産主義で行くべきだ」と主張され、ふらつきがちの外務省の尻を支えてくれた。

結局科技庁と外務省が導入反対で結束したため、二対一で通産省は敗退した。この間、根っからの技術屋を自認する土光さんの発言には終始絶対的な重みが感じられた。その後、肝心の「ふげん」は中途挫折の運命を辿ったが、もしあのとき「カ炉」を導入していたら今頃どうなっていたか。

さて昨今、日本の高速増殖炉計画を巡って国内の一部に「無理して国産技術に固執せず、将来完成したときに外国から導入した方が得策だ」という醒めた意見もあるようだが、土光さんが聞いたらなんと言われるだろうか。

 

 

(電気新聞05.01.01