日露戦争と原子力                                      (電気新聞・時評  2005.2.25)

            金子熊夫

 昨年と今年は日露戦争の百周年で、来る五月二七日は日本海大海戦の百回目の記念日に当たる。

 歴史好きの小生も、この一年間、機会あるごとに、旧満州(現中国東北部)の大連、旅順、瀋陽(旧奉天)等の戦跡を訪れ、ひそかに往時を偲んでいる。

 もっとも、戦闘の舞台となった中国の立場からすると、彼らこそ最大の犠牲者であり、これらの戦跡も日本の「帝国主義的侵略行為」の証拠以外の何物でもなく、格好の反日教育の材料として使われている。近年日中関係は「政冷経熱」と称されるような不自然な状況にあるが、実際に中国各地を回ってみて、一般民衆の間の反日感情の根深さを改めて痛感させられる。

 それとの比較でどうしても気になるのは、日本人一般、とくに若い日本人の間にみられる嫌中感情と裏腹に、日中関係の過去に対する無知、無関心、あるいは、過去を知ることすら極力避けようとする風潮があることである。しかし、これは決して看過してよいことではない。

誤解を恐れずに端的に言えば、満州事変(一九三一年) 以後の日本の対中軍事行動は明らかに「侵略行為」であり、潔く反省すべきであるが、それ以前の日本の行動は別である。特に日露戦争は、どの角度から見ても明らかに日本の自衛戦争であり、国際法上非難されるべきものではなかったし、現在でも何らやましく思う必要はない。

むしろ、あのとき日本が断固戦わなかったら、あるいは、戦ってももし敗れていたならば、どうなっていたか。間違いなく日本はロシアの属国になっていたはずだ。民族の純潔を守り得なかった可能性もある。不凍港を求めて強引に南下しようした帝政ロシアの野望を過小評価できない。ロシアを叩くために日英同盟条約を結んだ英国も、大敗した日本を救援する余裕はなかっただろう。

その最悪の事態を食い止めたのは、いうまでもなく、あの日、東郷大将(後に元帥)率いる日本海軍が対馬海峡でバルチック艦隊を文字通り完全に撃破し、制海権を確保したからだ。

その意味で、日本海海戦を含む日露戦争での勝利の持つ歴史的意義を現代の日本人はもっと正しく、積極的に評価すべきであり、そのような歴史教育を小、中学校で徹底すべきだ。

例えば「東郷ビール」という銘柄がフィンランドにあるように、元帥の偉業は海外では今でも語り継がれているのに、東京の原宿や表参道をたむろする若者たちは直ぐ傍にある東郷神社のことは全く知らないようだ。極東の小国が白人の大国と真正面から戦い、これを打ち破ったことが、当時列強の植民地支配下で呻吟していたアジア諸国をどれほど勇気付けたか、もっと詳しく教える必要がある。そうすれば、祖先に対する尊敬と感謝の気持が自然に生まれ、日本人としての自覚と自信=愛国心も育つであろう。

と、ここまで書いてきて思うのはーいささか突飛な発想かもしれないがー原子力についても同じようなことが言えるのではないかということだ。かつて三〇年前、石油危機が日本を直撃したとき、日本は必死の省エネ努力とともに、脱石油のエースとして原子力発電を最大限に促進することによって危機を乗り切った。もし原子力がなければ日本はどうなっていたか。

「喉元過ぎれば云々」の喩え通り、あの当時の原子力の素晴らしい貢献と、それを支えた多数の優秀な技術者たちの尊い努力を現在の日本人はすっかり忘れてしまった感がある。二一世紀の今日、ロシアや中国が日本を攻撃する惧れは多分ないだろうが、エネルギーが日本のアキレス腱であることに変わりない以上、いつどんなエネルギー危機が襲ってくるかも知れない。「勝って兜の緒を締めよ」(東郷元帥の連合艦隊解散の辞の結語)は日本民族にとって今もなお金言である。