送信者: "kkaneko" <kkaneko@eagle.ocn.ne.jp>
件名 : EEE会議 ("Atoms for Peace After 50 Years"会議に出席して)
日時 : 2003年5月7日 11:06

各位殿

既にお伝えしましたように、小生は、4月8−10日 サンフランシスコ近郊のリ
バーモア国立研究所(LLNL)で開催された国際会議「50年後の『平和のための原子
力』」に出席して参りました。この会議では、主として軍事、安全保障の視点から原
子力平和利用問題をレビューしましたが、そこでの議論は、日本の今後の原子力開発
のあるべき姿を考える上で裨益するところが少なくないと思います。この会議の概要
については、先日の第2回EEE会議非公式会合(4月23日)で簡単にご報告しました
が、当日出席できなかった方々からもご要望がありますので、改めて以下、小生の感
想を中心に概略をご報告させていただきます。(同会議では、発言者名と発言内容は
秘密にするという約束がありますので、詳細な議事録は割愛しました。)なお、この
報告を短縮したものが、本日付の電気新聞の時評欄に掲載されておりますので、併せ
てご高覧いただければ幸いです。
金子熊夫

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LLNL国際会議「50年後の『平和のための原子力』」に出席して

                       金子 熊夫

1.はじめに


今年は、ドワイト・D・アイゼンハワー米大統領が1953年12月8日、国連総会で歴史的
な「平和のための原子力」(Atoms for Peace)演説を行ってからちょうど50年目で
ある。世界各地で記念の国際会議等が企画されているが、その皮切りに、4月8〜1
0日、サンフランシスコ近郊のリバーモアで、「50年後の『平和のための原子力』
:挑戦と機会」(Atoms for Peace After 50 Years: Challenges and
Opportunities)と題する国際会議が開催された。

主催は、核兵器、とりわけ水爆研究で有名なローレンス・リバーモア国立研究所
(Lawrence Livermore National Laboratory) で、全米各地から核・原子力問題の専
門家や研究者が多数集まった。ワシントンからは国防総省、国務省、ホワイトハウス
等からも現役の担当官が個人的資格で参加していた。中には、第二次世界大戦末期の
マンハッタン計画(原爆製造計画)の生き残りや、実際にアイゼンハワー演説の起草
に係わった高齢の科学者等の顔も見え、貴重な体験談や薀蓄を披露していた。全般に
共和党系の学者や研究者が多いように見受けられたが、民主党系の人々もかなりお
り、彼らの多くは歴代政権でそれぞれ核・原子力問題を担当した実務経験を持つ。な
お、海外からは、ヨーロッパ(英、仏、ロシア等)やアジア(インド、韓国等)から
若干名の専門家が参加したが、日本からは、イラク戦争に伴うテロの危険やSARS
騒ぎのせいで参加を取り止めた人もいて、結局筆者一人だけであった。

9.11事件以後米国の政府系の研究機関は警戒態勢が厳しくなっているが、とくに
今回はイラク戦争中でもあり、LLNLでは出席者のセキューリティ・チェックに神
経質的と思われるくらい注意を払っていた(このため出席者は特別に招待された人に
限定され、一般の傍聴者は皆無であった)。たまたま会議第2日目、バグダッド陥落
の速報が飛び込んできたが、米国人出席者は一様にこれを当然視しており、とくにエ
キサイトする風は見られなかった。このことは、会議終了後、引き続きワシントンと
ニューヨークを訪れ、国防総省、国務省、ホワイトハウス、議会(上院)、米国国連
大使など、米国政府関係要人たちと懇談した際にも、同様に感じられた。

2.会議開催の歴史的背景

ところで、アイゼンハワー演説は、日本では専ら原子力平和利用を提唱したものとし
て記憶されているが、実際には、平和利用問題は演説の最後の部分に出てくるだけ
で、軍事利用(核管理)問題が中心命題であった(同演説全文テキスト:別添3)。

すなわち、1945年7月ニューメキシコ州のアラモゴールドで最初の核実験に成功した
とき米国は、この人類史上かつてない巨大なエネルギー技術を軍事機密として、その
完全独占を意図したが、僅か4年後の1949年にソ連も核実験に成功した。同年米ソの
冷戦がスタートした。

当時米ソ両国は、誕生したばかりの国連を舞台にして、核(原子力)の国際管理方法
を巡って鋭く対立していた。国連総会の決議第1号は「国連原子力委員会」(UNAEC)
の設置に関するものであったが、結局同委員会は画餅に終わった。トルーマン政権下
でD.アチソン(Dean Acheson)国務次官とD.リリエンソール(David Lilienthal)初
代米国原子力委員長(前TVA総裁)がまとめた核(原子力)国際管理構想は、B.
バルーク(Bernard Baruch)国連代表による「バルーク提案」という形で国連原子力
委員会の審議に付されたものの、拒否権問題などが絡んで、米ソ交渉は暗礁に乗り上
げていた。

他方、マンハッタン計画を通じて核・原子力情報を得ていた旧連合国の英国やカナダ
では、戦後直後から原子力の平和利用研究が進んでおり、それぞれ独自の原子炉の開
発に着手していた。

そこで、米国は、従来の政策を一転し、まず商業用原子力発電への道を開くために原
子力法(マクマホン法)を改正した上で、独自の軽水炉開発を進めると共に、原子力
平和利用、つまり原子力発電の分野でも世界の主導権をとるため、新しい国際制度の
創設を唱え始めた。

米国が最初に考えたのは「国際原子力開発公社」(International Atomic
Development Authority)構想で、機微な技術やウラン燃料等はすべて公社のみが所
有、管理するとしていた。しかるに、この構想がまたしてもソ連の反対で不発に終わ
ると、次善の代案として、「国際原子力機関」(IAEA)構想をまとめ、それを
1953年のアイゼンハワー演説で打ち上げたのである。

当初の米国構想(バルーク提案)では、核物質等を一旦すべて国際機関にプールし、
それを希望国に貸与する方式を想定していたが、1957年に創設されたIAEA制度下
では、各国間の妥協の結果、核物質や原子炉は生産国(製造国)から直接輸入国に移
転され、IAEAは、当該核物質が軍事転用されることを防止する機能、すなわち
「保障措置」だけを受け持つことになったのである(もっとも憲章上はIAEAから
供与されるシステムも残されているが、初期の一時期を除き、このシステムは事実上
あまり利用されていない)。

 今にして思えば、この時点で、核の軍事転用=核拡散が比較的起こりやすい国際制
度が決定されてしまったわけである。勿論、その後1968年の核不拡散条約(NPT)
の成立により、さらに1990年代にイラク、北朝鮮問題等を契機に、IAEA保障措置
は格段に改善されはしたが、「パンドラの箱」から出てしまった核エネルギーを完全
に管理することは所詮不可能である。インド、パキスタン、イスラエルは言うに及ば
ず、今日最大の国際紛争の原因となっているイラク、イランや北朝鮮の核開発問題が
そのことを如実に示しているといえよう。


3.今次会議の主な特徴と今後の日本の対応

 さて、今次リバーモア会議では、過去50年間を振り返って、果たしてアイゼンハ
ワー大統領の「平和のための原子力」提案は成功であったとみるべきか、あるいは失
敗であったとみるべきかが最も基本なテーマの1つであったわけであるが、以上のよ
うな歴史的背景に鑑みれば、米国人参加者の間では、同提案は結局のところ「失敗」
であったという点で暗黙の合意がみられたことはいわば当然のことである。

 思うに、アイゼンハワー提案が国際的に失敗であったかもしれないという否定的な
評価は、相当昔から米国内には存在していた。とくに1974年のインドの核実験後登場
したカーター政権の下で、1977から2年余にわたって実施された「国際核燃料サイク
ル評価」(International Nuclear Fuel Cycle Evaluation=INFCE)作業は、まさに
そのような米国の苦い反省に基づき、原子力開発を巡る国際制度や技術的問題を抜本
的に再検討しようという試みであった。結果的にINCFE作業は、日本と、当時原
子力発電に前向きであった英、仏、独等との連携プレーによる懸命の巻き返しによっ
て、米国の当初目標とは逆の結論に到達したわけであるが、米国は、その後ますます
原子力平和利用に消極的になっていることは周知のとおりである。もっとも、ブッ
シュ政権の登場(2001年1月)により、米国のエネルギー政策の中における原子力発電
の位置付けが急上昇しており、今後米国内で原子力再生の動きが本格化する兆しも出
てきているが、にもかかわらず、米国の核燃料サイクル(とくにバックエンド)政策
が大きく前向きに変わる可能性は乏しいと見ざるを得ない。

 以上は米国の現状からして止むをえないところであるが、しかし、原子力平和利用
の“模範生”を自認し、独自の核燃料サイクル路線の確立を目指して必死の努力を続
けてきた日本の立場からすれば、そう簡単に「平和のための原子力」構想が失敗で
あったと言うわけには行かない。しかもINFCE当時と異なり、いまやドイツ、ベ
ルギー、スウェーデン等西欧諸国では脱原発の動きが加速しており、日本の原子力平
和利用は日本自身の手で守らなければならない時代になっている。他力本願から自力
本願へギアチェンジをしなければならない。

実は、リバーモア会議は今回で終わりではなく、第2回は5月末に日本(御殿場予
定)で、第3回は7月にフランス(南仏)で開催されることになっており、議題も、
核・原子力軍事利用問題よりむしろ平和利用問題が中心になる予定である。さらに、
こうした3回の準備的な会合の成果を踏まえて、本年12月にはワシントンD.C.で軍
事利用面と平和利用面を総合した大型の国際会議が開催される計画もある。また、こ
うした米国の主催によるもののほかに、日本国内でもいくつかの関連団体でアイゼン
ハワー演説50周年を記念するシンポジウムや国際会議の開催が年内に予定されてい
るようである。

ついては、こうした機会を最大限に利用して、エネルギー資源小国にとっての原子力
の重要性を、自らの50年の実績と将来展望を踏まえて内外に強力にアピールするよ
う、周到な理論武装を急がねばならない。さらに言えば、そうした努力は、単に日本
だけのためではなく、近い将来深刻なエネルギー問題を抱え、できれば原子力発電を
導入したいと考えてる他のアジアの国々のためにも必要なことである。そして、その
ためには、できれば本年中に、「アジアのための新しいアトムズ・フォー・ピース」
(New “Atoms for Peace” in Asia)とでもいうようなスローガンの下に、原子力の
再生を目指した一大国際会議の開催を、日本が中心になって準備すべきではないか。

4.会議の具体的議事概要 (省略)