EEE会議(イラクの原子力科学者の生々しい報告)........................................................2003.9.8


先月末イタリア(シチリア)で開催された国際会議に出席された特別会員の河田東海
夫氏(核燃料サイクル開発機構・特認参事)から、次のような興味ある、かつ大変
生々しい「土産話」を送っていただきました。ご参考まで。
--KK

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8月の19日から25日にかけ、シチリアの西端エリーチェというところで、世界科
学者連盟主催の「地球規模危機に関する国際セミナー」と「放射性物質の長期管理に
関する国際ワークショップ」が開催され、これに招待され参加してきました。

会議のテーマは、国際テロ、温暖化問題、エイズ問題、環境ホルモン、水資源紛争、
等々幅広く、興味深いものでした。イラクから英国に亡命している科学者アリ・シャ
リスタニ博士からのイラク復興計画に関する報告がありましたが、たまたま同席した
イタリアのメディア各社によるプレスインタビューの席で、この科学者から、大変興
味深い報告がありました。
以下、彼がインタビューで話した経験談の概要です。

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フセインが自ら大統領就任を宣言した1979年、当時イラク原子力委員会の上級科
学顧問であったアリ・シャリスタニ博士は、政府の役人に呼ばれた。話は、フセイン
大統領の指示でこれまでの(平和利用)原子力開発を凍結し、「Strategic
development」すなわち核兵器開発に転換するので、これに協力しろという話であっ
た。
そこで彼は、イラクはNPTに加盟しており、核兵器開発は、その国際約束に違反す
ることになるので協力はできないと答えた。
すると、直ちに彼は国家警察により逮捕され、20日間拷問を受け、精神錯乱状態に
陥った。
そのまま、Abu Ghraib Prison (イラクの政治犯収容の監獄として有名のようです)
に投獄され、以後11年3ヶ月、ここに収容され、そのうちの10年間(1980年
5月から1990年5月)は独房生活を強いられ、看守以外の人と言葉を交わす機会
は全くなかった。
1991年2月、仲間の協力で看守の買収に成功し、脱獄した後、看守の車で逃亡
し、最後は山越えをしてイランに脱出することに成功した。この間の出来事は、まさ
にジェームズ・ボンド・ストーリそのものであった。

その後イギリスに亡命し、イギリスの大学に席を置いているが、4月のバグダッド陥
落の2日前にバグダッドに戻り、自分がかつて投獄されていた監獄が、その後どう
なったかを見に行ったが、すでに空っぽであった。その後、関係者が埋葬されたと見
られるいくつかの集団墓地(Mass Grave)の発掘に立ち会った。

シャリスタニ博士は、また、次のような話もした。

イラクの生物化学兵器開発では、Inhalation Chamber というのが使われていたが、
これらは西欧の某国から供与されたものであった。この装置に、人間を一人づつ、
「供試体」として入れて実験をくりかえした。「供試体」は政治犯か、イラン人捕虜
であった。その後、イラン人捕虜などを100人規模で砂漠に連行し、フィールド実
験と称し化学兵器の実験にさらした。1988年3月16日には、国境に近い500
0人の町の住民を同兵器で殺害した。

彼の話は、いずれも10年以上前の話であり、ここ10年の話ではないが、当事者の
話として生々しいものであった。その後シャリスタニ博士は、さらに詳しい話を聞き
たいということで、イタリアのメディアの連中に別部屋に拉致されてしまった。

なお、この会議では、イラクの長期的な復興を手助けする一方策として、イラク科学
アカデミーの再興に世界科学者連盟が協力するということが確認された。


核燃料サイクル開発機構
特認参事
河田 東海夫