050211 余談: なぜ2月11日が「建国記念の日」なのか?

皆様
 
 本日2月11日は「建国記念の日」です。年配の方々は当然ご存知のように、
かつてはこの日は「紀元節」と呼ばれ、四大節(紀元節、四方節、天長節、
明治節)の1つでした。つまり、「古事記」と「日本書紀」の記述に基づいて
初代天皇である神武天皇が即位した日を記念し、宮中では神武天皇の即位を記
念する行事が行なわれ、民間でも神格化した天皇を奉る行事が盛んに行なわれ
ていました。

 では、なぜ2月11日なのでしょう。小生もちょっと記憶がぼやけてきたので、
念のためにインタネットで調べてみました。その結果をご披露しますとーー

 日本書紀によると、神武天皇が橿原に宮を建てた日が元旦となっています。
したがって本来ならば「元旦=建国記念日」であるはずです。ところが明治時
代に、日本古来のあらゆる日付を西洋暦に換算することが流行しました。神武
天皇の時代にどんな暦が使われていたのか、正確な史料は何も残されていませ
ん。ただ水戸家の「大日本史」編集員・藤田一正という人の計算によると、
本書紀の日付は全般にわたって「推古天皇以前の時代の日付について、元嘉
が行われていたと仮定して書かれている」ということが確認されています。
この計算に基づいて神武天皇元年の元旦が西洋暦の何月何日に相当するのかを
計算してみた結果、紀元前660年2月11日だと算出されたのです。これにより
明治6年10月に「2月11日を紀元節とする」ことが制定されました。

 ところが上記のように日本では明治5年から6年にかけて、旧暦から新暦へ
の改訂が行なわれました。つまり明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日
にして、その後は西洋で行なわれているグレゴリウス暦(太陽暦)が使われるよ
うになり、現在に至っています。なにせラジオもテレビもない時代ですから、
当然かなりの混乱が生じました。新暦に切り替えることが政府から発表された
のが11月9日ですから、当時の通信事情を考えれば明治6年1月1日を過ぎて
からこの事実を知った地域が実際にかなりあったようです。

 ところが、明治6年1月29日、すなわち旧暦の元旦にあたる日には、宮中で
神武天皇即位の記念式典が行なわれ、民間でもこれに合わせて祝賀行事が行な
われました。一般国民の間では、「西洋の圧力で政府はやむを得ずあちらの暦
を導入したが、お上はちゃんと今までの正月を大事にしてくれているのだ」と
いう勝手な解釈が広がりつつあったからです。
 
 政府も実際にこの日が来てみて国民の反応を見て初めて慌てます。そもそも
明治6年の改暦自体が、多種あった改暦の意見を全て無視して、政府の一部の
首脳の決断により唐突に実施されたものでした。あまり深く色々と考えたもの
ではなかったので、こういう穴が色々あったのでしょう。
 このままでは新暦の正月が定着しないと危機感をつのらせた政府は、このお
祭りを新暦の特定の日に固定しようと考えたのでした。そして根拠が極めて曖
昧なまま無茶な計算を断行し、2月11日を「紀元節」と定めたというわけです。
 
 戦後になって新憲法の精神にそぐわないという理由で「紀元節」は廃止され
ましたが、国会議員の間から紀元節を懐かしむ声があがり、種々の経緯を経て、
佐藤内閣時代の1966年(昭和41年)6月に「建国記念の日」が国民の祝日として
制定されました。ただし、これには社会党や共産党が「戦前の紀元節を復活さ
せようとしている」と強硬に反対したため具体的な日付を国会で定めることが
できず、「6ヶ月以内に別途政令で定める」こととされました。その後特別の
審議会を設置してさらに検討した結果、同年12月に、旧紀元節と同じ2月
11日を「建国記念の日」とすることが適当との答申を受けて、ようやく正式
に公布に漕ぎつけました。

 というわけで、紀元節にしろ建国記念の日にしろ、そもそもは神武天皇の即
位した日が基準になっています。それが計算上は紀元前660年とされているわけ
ですが、実際の日本はこの時代は「縄文時代」で、天皇どころか文字も無く、
もちろん暦もあるはずがありません。すべて神話の世界で、第一、神武天皇そ
のものが実在しなかったとされています。日本共産党をはじめとする革新勢力は、
こうした歴史の矛盾を突いて「建国記念の日」を制定させまいと、この祝日の
存在をかたくなに反対し続けています(下記の日本共産党のホームページ参照)。
従って、2月11日という日は「建国記念の日」に反対する勢力が集会を開き、
他方でこの日を祝う勢力が祝賀会を開いて国論を二分する構図が顕著になる日
でもあります。

 自分が生まれ育った国の「建国記念日」を祝うことは決して不自然なことで
はありませんが、そもそも日本がいつからどのようにして形成されてきたのか、
正確に検証できる史料は未だに発見されていません。それほど古い歴史を持つ
国であることをまず誇りに思ってもよいという気がしますが、今の若い日本人に
そのことを理解させるのは容易ではなさそうです。
--KK
 
 
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「建国記念の日」に日本共産党が反対する理由   (同党のHPから)


〈問い〉 二月十一日は「建国記念の日」ということになっていますが、日本共産党はこれに反対しています。なぜですか。(愛知・一読者)

〈答え〉 「建国記念の日」は、もともと天皇を神格化し、その政治を美化した戦前の「紀元節」を復活させたもので、主権在民を定める憲法の民主主義の原則に反しています。日本共産党は憲法の国民主権の原則と言論・思想・信教・学問の自由を守る立場から「建国記念の日」に反対しています。
 「紀元節」は、初代天皇とされる神武(じんむ)天皇が、「辛酉(かのととり)年春正月」の一日に即位したという『日本書紀』の記述にもとづき、一八七三年、明治政府が太陽暦に換算して二月十一日と定めました。神武天皇が即位してから日本の歴史が始まり、その子孫による統治は永遠に変わらないものだとする天皇中心の非科学的な歴史観です。
 明治政府は「紀元節」の日を選んで大日本帝国憲法を発布(一八八九年)するとか、「雲に聳(そび)ゆる高千穂の……」という「紀元節」の歌を小学校などで歌わせ、日露戦争の開戦をこの日にあわせるなど、国民に皇国史観と軍国主義をおしつける機会としてきました。
 しかし明治政府の説明どおりだとすると、紀元前六六〇年二月十一日が神武天皇即位の日となります。そのころの日本はまだ縄文時代で、文字や暦も知られていませんでした。階級も発生しておらず、天皇もいませんでした。神武天皇が実在しない人物であることは歴史学の常識です。二月十一日を「建国記念の日」とする科学的な根拠はありません。
 戦後「紀元節」は憲法の主権在民の原則に反するものとして廃止されました。ところが、自民党政府は一九六七年から「建国記念の日」として復活させました。これは、その後の元号法制化、「日の丸」「君が代」の教育現場への押しつけなど、教育の反動化、憲法改悪の動きとむすびついたものです。
 このように二月十一日の「建国記念の日」は、憲法の主権在民の原則に反するものであり、これを祝う民間の式典を政府が後援することや首相、閣僚、衆参両院代表の出席はやめるべきです。(絹)
〔1999・2・11(木)〕
 
http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/990211_faq.html