050316  「安全文化は生もの」  松浦祥次郎氏の意見

すでにお読みになった方々も多いかと思いますが、今朝の電気新聞の時評「ウェーブ」欄に松浦祥次郎氏(原子力安全委員会委員長)の「安全文化は生もの」と題する文章が掲載されております。大変貴重なご意見と思い、ご本人のご了解を得て、ここに披露させていただきます。ご参考まで。

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  「安全文化は生もの」


            原子力安全委員会

            委員長 松浦祥次郎


 原子力に関連する活動の安全確保に於いて、安全文化の重要性が特に強調されるようになったのは、旧ソ連のチェルノブイリ4号原子炉で1986年に発生した大事故以来である。この事故に関する国際原子力機関の調査報告書は、事故原因の一つとして、「安全文化の重大な欠如」を指摘している。我が国においても、原子力事故やトラブルが発生するたびに、安全確保における安全文化の重要性が指摘され続けてきている。

 ところで「安全文化」という表現は元来の日本語ではなく、英語からの訳語であるためか、しばしばその意味内容を問われる事がある。国際原子力機関の文書にある定義が、世界標準であろうが、私はもう少し簡潔に「安全を最重要な価値とする心映えによる思考、判断、行動のありよう」と説明している。

 原子力安全委員会では、JCO東海工場臨界事故を契機として、原子力安全文化の醸成、向上、維持、退行・崩壊の防止などに関して原子力事業に関わる現場管理者や経営者とお互いの考えを伝え合い、確認することを続けてきている。このような意見交換をする効果のひとつは、お互いに安全文化の重要性を再確認する契機を持てることは当然として、話し合いの其の時、其の場で安全文化の特性の一面とでも言うものを捉えなおせることである。表題とした「安全文化は生もの」はそのひとつである。

 安全文化の維持・向上というと、安全文化が何か具体的な実体を有し、備えるべき基準があるかのように思われる。安全確保のために、安全文化が重要で、欠くことのできないソフトウェアーであることには異論はないと考えられる。しかし、それは先に述べたように、心映え、態度、習慣などに属する特性をもつものであり、守るべき基準というものは定めようがない。

 一方、法規遵守(コンプライアンス)も安全確保に不可欠な、重要なソフトウェアーであるが、これは安全文化よりずっと硬質で、無機的で、ハードウェアーに近い感さえある。法規はまさに「物差し」であって、仕事をする人の外からあてがわれ、仕事はそれにぴたりと合ってなされなくてはならない。

 安全文化はより有機的なもの、人の中にあるもの、人と一緒にあるもので、まさに「生もの」と言ってよいであろう。人と共にいつもついて回るものであり、維持すると言っても冷凍食品のように固化して保存するわけにはいかない。そう言えば、日本文化の表現の典型に「無形文化財」とされているものがあるが、安全文化の維持には無形文化財の維持に学ぶところがある。

 健全で、良い安全文化は、かつてから良い漬物が「香の物」と呼ばれているように、良い香りを発している。しかしまた、糠漬けの糠と同じように、常に手を入れないと傷んでしまう。安全文化を腐敗させる「有害菌類」はいろいろ発見されている。「思い上がり」、「自信過剰」、「無関心」、「軽視・無視」、「隠し立て」などは特によく指摘される菌類である。

 健全な安全文化を醸成して維持し、その馥郁とした香りの中で仕事を楽しむためには、関係者は自分たちの安全文化が菌に侵されていないかどうか、よく見分け、嗅ぎ分けることができるように、五感を常に鋭くしておく必要がある。

 作業場で奨励されている「挨拶、声がけ」、「整理、整頓、清潔、清掃」、「事前・事後の確認・再確認」などの平凡なキャンペインの大切さが、安全文化に常に手を入れ堅持する面から再認識される。つまるところ、一番大切なのは「良いことを保つため常に手を入れるという躾(しつけ)」のようである。



(3月16日電気新聞時評欄)